鉛活字で「学校新聞」を印刷 ジョバンニの世界
「引っ込み思案」だった自分が変わるきっかけは、「新聞委員会」。
当時、「学校新聞」は、地元の新聞社で印刷していました。
「鉛の活字」を使っての印刷でした。
まさに「銀河鉄道の夜」のジョバンニの世界です。
1年が終わる頃、「次年度、誰が新聞委員長になる?」と上級生から言われます。
2年生が「委員長」をやる慣例でした。
毎日の予習・復習、受験勉強が大変なので、みな逃げます。
こういうとき、いつも貧乏くじ。
やむなく引き受けるハメになりました。
これまた「塞翁が馬」のはじまりです。
そもそもジャーナリズムとか、マスコミに関心はありませんでした。
新聞やテレビの記者を、将来の職業として考えたこともありません。
同級生には、父親が某有名テレビ局、大手新聞社に勤める子もいました。
それは、50歳過ぎてから同窓会に行ってわかったことです。
彼らも同じところに就職していました。
新聞委員会の活動をとおして、「言葉の力でたたかう」ことを覚えます。
体力がなく運動神経が悪くても、言論で「勝負」できるようになりました。
もともとは、短気で喧嘩っ早いんです。
腕力がないから、おとなしくしているだけ。
しかし、言葉による戦いといっても、
相手を見誤って、体力の差で怖い思いをしたことは何度もあります。
アホです(笑)。
受験体制への批判・不満を、学校新聞で行うようになりました。
私の記事に目を止めて下さったのが、今春亡くなられた〇〇先生。
「2年生の新聞委員に面白い生徒がいる」。
3年の先輩が「〇〇先生が授業で言っていたよ」と教えてくれました。
〇〇先生から直接、授業を教えてもらったことはありません。
水害で亡くなった◇◇君が、先生の自宅近くに下宿しており、
その縁で、先生のお宅に伺うことになりました。
〇〇先生を私に引き合わせてくれたのは、◇◇君です。
新聞委員会、〇〇先生、◇◇くん、電車の中で見かけた女子◆◆さん。
不思議な「縁」が、どんどんつながっていきます。
今考えると、すごい話だなと思います。
* 7月の野菜収穫。 梅雨が終わり、急に採れ始めました。
オクラ6 ミョウガ5 ニラ シソ