ワガヤ ヒストリー
前にも書いたことですが、
父が転勤族だったので、実家は8回変わりました。
退職金で建てた家が、最後になります。
とにかく「自分の家」というものがありませんでした。
常に「借家」です。
自分自身はこれまでに、現在の家を含めて18回、
住むところが変わりました。
高校までに実家が4回かわり、高校のときの下宿は2回。
大学時代は、3年間の県人寮と、アパート2回。
就職してからも、アパートを3回変わった。
最後のアパートは風呂付きだったので、感激。
それまでのアパートは、銭湯通い。
とにかく、「自分の家」がほしかった。
マイホームへの執着が、ものすごく強かった。
30代になって、公団の5階を手に入れます。
最上階の端っこだったので、眺めもよく最高でした。
「一国一城の主」、いや「一戸の主」になりました。
ドクシンの同僚仲間からは、
「ロードーシャの味方などと言いながら、
プチブルなんて、死語ですね(笑)。
若い人は、知らないでしょう。
ましてや、プロレタリアートって、何 ?
どんなアート ?
将来のケッコンを見込んで、「スープの冷めない距離」でした。
ソボとハハオヤの面倒を見るためにも、
アイカタ一家と一緒にくらすことが条件になります。
ちょうどそんな時に、公団から戸建て用の土地が、売りに出されました。
「一番狭い」土地で、「坪単価が一番高い」ところに応募します。
隣が一軒しかない角地だから高いのです。
アイカタが、「狭くて高いから、競争倍率が低くなるだろう」と。
予想は大当たり、「補欠の3番」。
「これは、来るぞ!!」と。
オヤジさんの予想もあたります。
オヤジさんが3分の2で、自分が3分の1を負担。
自分のようなヒラの安月給には、一人で買えるような物件ではありません。
同僚から今度は「家のためにケッコンした」と。
ケッコンのため、イエのためなら、何でもあり ?
そんなこんなで、今があるのです。
亡くなったギフに感謝しています。
イエへの執念。
近所で一番狭い土地。
田舎では考えられないような狭さ。
でも公団売り出しの土地ですから、民間のような極小でもありません。
可能な限り広く庭をとりました。
これも田舎育ちの発想です。
生垣の剪定、草取り、花壇、野菜作りをしています。
以前に書きましたが、庭に畑をつくるのは西の方の出身者だとか。
以上が、ジジイのワガヤヒストリー。
「塞翁が馬」の連続でした。