誰も 出てこない … どうして ? (86)
8月になると、思い出します。
父が出張のとき買ってきた、白黒の写真。
初めて、どんなようすだったかを知ったのです。
8月6日のこと、9日のこと。
修学旅行の思い出を、Kセンセーが語ります。
今のガッコー現場には、
ヘーワガクシューやヘーワキョーイクというものが、
存在しているのだろうか ?
修学旅行での飛行機利用が認められる前は、
こんな機会でなければ、
セートたちが同地を訪れることもないだろう、と。
1回目、九州コース。 ナガサキ。 ジョシコーのとき。
2回目、山陰・山陽コース。 ヒロシマ。 シンセツコーのとき。
3回目、山陽・四国コース。 ヒロシマ。 シンセツコーのとき。
2回目のときの、ヒロシマの平和資料館。
セートたちは、あっという間に通り抜けた。
展示をほとんど見ないのだ。
何のためにコースに入れたのか、これでは意味がない。
3回目のときは、事前学習に力を入れた。
12クラスを4つの班に分け、
3クラスごとに2コース、反対周りで実施。
3クラスなので、動きやすかった。
ヒバクシャの方からのお話も聞く時間を設けた。
資料館に入ったセートたちが、なかなか出てこない。
じっくり見ている。
旅行社の添乗員さんが、心配そうに、
「セートさんたち、どうしたんでしょうね。
出て来ませんよ」と。
ヒバクシャからじかに話しを聞いたからである。
4回目の学年はどうなったか。
スタートする前に、やられてしまった。
学年の担任団が発足する前に、
スキー修学旅行を推進するキョーシグループが、結束したのである。
12人のクラス担任のうち、
ヒロシマをコースに含める案に賛成したのは、3人だけ。
圧倒的な多数で押し切られた。
私たちに知られないように、秘かに準備していたのだ。
その後の異動のために、私はスキー修学旅行の経験はない。
彼らは、ヘイワガクシュウに飽きていた。
事前指導が面倒くさい。
セートたちは、夜、寝ずに騒ぐ。
早く寝かせるためには、スキーで疲れさせた方がいい、というのである。
当時、スキー修学旅行が、コーコー現場を一世風靡していた。
30年以上前の話である。
もう、キョーイクゲンバから、ヒロシマもナガサキも消えてしまったのだろうか。
セカイで唯一の被爆国なのに。
そんなことはない、と信じたい。
できることなら、日本全国のガッコーが、6日か9日のいずれかを登校日にして、
ゲンバクのことを知り、ヘーワのことを考える日にしてほしいと思っている。