われに 欠けたるものは ?
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
自分を見つめれば、欠けたるものばかり。
美貌、知力、運動神経、記憶力、想像力、人格 … 。
挙げればきりがありません。
「体験したことのないものは、見えない」。
講演会で、そんなことを聴きました。
なるほど。
障害者や、LGBTや、サベツにあっている人たちに出会わなければ、
彼らのことを理解できない、と。
講演会や近所の人たちとの交流で、
「自分に決定的に欠けているもの」がわかったのです。
自分は、同世代のダンセーたちに比べて「若い」と言われます。
20代のダンセーと一緒に、マスクをして立っていたら、
高齢ジョセーから「お兄ちゃんたち」と言われたことがありました。
「私、〇歳ですよ」と答えたら、20代のお兄ちゃんも驚いていたのです。
自分の頭の中は、
十代・二十代のころから全く変わっていないところがあります。
ドン・キホーテそのものです。
この「若さ」の理由もわかりました。
老人会のアラエイトのジョセーたちが、
近所のアラフィフ、アラフォーの若いジョセーたちのことを「知っている」。
「なぜ?」と思っていたら、その理由も同じことなのです。
つまり、私に決定的に欠けているのは「子ども」でした。
「子どもがほしい」と思ったことはほとんどありません。
自分が「子どもを育てる」ことをイメージしたこともありません。
「親」をしたことがないので、「子」のことが全くわかっていない。
「子しらず」のまま、この年齢になってしまったのです。
アラエイトのジョセーたちから見たら、
アラフィフ・アラフォーの女男は、自分の「娘・息子」と同じ。
この地域にピーク時におよそ120名の子ども会があった頃の、
子どもたちなのでしょう。
そういうことだったのか。
自分から見ると、
アラカン・アラフィフ・アラフォーは、「若いジョセー・ダンセー」なのです。
「子どもと同世代」などとは、想像もしませんでした。
体験していないことは見えない。
まさにその通りです。
いつまでも「若いまま」。
いや「バカイまま」な理由も今頃わかって、愕然とした次第です(笑)。
皆さんのブログで、
「子」や「孫」のことを間接体験させていただいています。
感謝です。