自分の「最期」の姿は ?
みなさんは、自分の最期をどんなふうに描いていらっしゃいますか ?
自分には子どもも孫もいない。
アイカタを見送ったあと、
アラビャクになった自分は、周囲の知り合いもどんどんなくなり、
誰に知られることもなく、ひとりで亡くなるのだろうな。
ただ、呆けてしまう前に、
安心できる弁護士事務所に成年後見人をお願いしなければと思っています。
「1947年、エルゼアール・ブフィエは、
バノンの養老院において、やすらかにその生涯を閉じた」
40代の頃に出会った『木を植えた男』。
ジャン・ジオノ原作、フレデリック・バックの絵。
三国廉太郎の朗読のアニメを、何度も観ました。
仕事に取り組んで疲れているとき、
『木を植えた男』がいつも浮かんできました。
落書き消しのために、黙々とローラーでペンキ塗りしているときや、
サービス残業・休日無償出勤・持ち帰り仕事 … などのとき。
今でも地域の花々を植えている時に、時々思い出すことがあります。
自分にとっては、バイブル的な本です。
しかしあの作品のなかで、なかなかピンとこないシーンがありました。
人間と言うものは、体験してみないとなかなか理解できないものですね。
次のくだりです。
「こうして、一つ、また一つと、村々が再興されていった。
平地に住んでいた人たちが、高価な土地をひきはらって移り住み、
この一帯に若さと活力と冒険心をもたらした。
道々のいたるところで、はつらつとした若い男女が語りあい、
村の祭りに楽しみを覚えた少年少女らが笑いさざめきあう情景に出会う。
いまや見ちがえるほどなごやかな心で生活を楽しむようになった古くからの住民に、
それら新来の人びとをも加えれば、ゆうに1万人をこえる人たちの幸せが、
エルゼアール・ブフィエによってもたらされたことになる」
集会所の印刷室で、
また山野草観察会で、明るい声をあげていた小学校低学年の姉妹。
自治会ジョセー役員の娘たちです。
子どものいない私は、そのときに初めて
『木を植えた男』の、上記のシーンが身近なものとして感じられたのです。
市内最高齢の団地の一つである、わが団地。
これまで「一路、高齢化がすすむ地域」と思っていました。
しかし、わずかながら新しい住民も入ってきます。
彼らがいつの日か、地域の担い手になるまでに、
アラセブの私たちが地域づくりの基礎をきずいておく必要があると思っているのです。
自分がこの世をおさらばする頃に、この団地はどうなっているのだろう。
現在、取り組んでいる地域ボランティア。
地域づくりの一助になればと願うばかりです。
その頃、自分はどこかの施設か病院で、一生を終えるのでしょう。
ある日ひとり、自宅で亡くなっているかもしれません。
『木を植えた男』は、とても素敵な絵本です。
まだの方は、ぜひ、ご一読を。
アニメも、素晴らしいですよ。
三国廉太郎の声に魅了されます。