人生百年 有為自然

人生百年。地域づくり、日々の生活、思いなどを中心にしたブログです。

有為自然 1097 「関白宣言」ではなく「〇〇宣言」 230625

  「関白宣言」ではなく「〇〇宣言」  230625

 

 

さだまさしは、別に嫌いではない。

顔が似ている友人もいる。

ただ「関白宣言」の歌詞は、最初聞いた時からしっくりこない。

最後の部分を読めば違う、という人もいるらしい。

読み直してみたが、なおさら納得できない。

 

起床 就寝 炊事 美容 従順

舅 姑 小姑 陰口 嫉妬 家 嫁 老後 

 

妻にさんざん関白ぶりの要求をしたあと、老後になって次の歌詞。

 

♫ 子どもが育って年をとったら   俺より先に死んではいけない

  例えばわずか一日でもいい  俺より早く逝ってはいけない

  何もいらない俺の手を握り  涙のしずく二つ以上こぼせ

  お前のおかげでいい人生だったと  オレが言うから必ず言うから

  忘れてくれるな俺の愛する女は  愛する女は生涯お前ひとり

  忘れてくれるな俺の愛する女は  愛する女は生涯お前ひとり

 

妻亡き後一人で死んでいくことを想定しない歌詞だ。

情けない。

自分自身は、看取ってもらおうなんて思ったことはない。

この歌詞は、最期は女性が男性の世話をするという発想なのだ。

世のジョセーたちは、この歌詞をいったいどう思っているのだろう。

 

ところで、自分自身は家事などやっていると思い込んでいた。

食器洗い、買い物、浴室掃除、洗濯 … 。

世のオトコたちの平均にくらべれば、自分はやっているのだと。

しかしこれは、思い上がり、慢心。

 

これまでの世の女性たちにとっては、ふつうのことなのだ。

これに出産、育児、介護。

兼業の仕事をもっている農家の方の場合は、農作業も加わる。

お盆・正月などさまざまな年中行事、親戚づきあい。

最近、そんなことに気づかされた。

それを、「家事いっさい、自分はやっている」と思い込んでいた。

家事をやっているといっても、世間のジョセー以下なのだ。

 

しかもまだ自分は、無心に行ってはいない。

いつもやりながら、怒ったり、苛立ったり。

老子のいう無為自然の世界とは、ほど遠い。

意図しなくても、自然に行う、

そんなあり方ではない。

 

 

たえず「有意」がある。

「意識」しなくても自然に行っている、そんな境地に達せないものか。

「意識」しているからこそ、癇癪をおこす。

仏教でいう「貪瞋痴」(とんじんち)「瞋」(じん 怒り)

まさに煩悩の徒である。

 

何も考えず、ボーッと生きる。

そんな自分になりたい。

その境地になったときは、あの世にいってしまっているか(笑)

その前に、認知症か。

とにかくアンガーマネジメントが必要な自分である。

 

 

「関白宣言」ではなく、

自分自身、「慢心反省宣言」というところか。

 

まとめ  「関白宣言」の最後がいいという人の気持ちがわからない。

     しかし、自分自身には「思い上がり」「慢心」があった。