「関白宣言」ではなく「〇〇宣言」 230625
さだまさしは、別に嫌いではない。
顔が似ている友人もいる。
ただ「関白宣言」の歌詞は、最初聞いた時からしっくりこない。
最後の部分を読めば違う、という人もいるらしい。
読み直してみたが、なおさら納得できない。
起床 就寝 炊事 美容 従順
舅 姑 小姑 陰口 嫉妬 家 嫁 老後
妻にさんざん関白ぶりの要求をしたあと、老後になって次の歌詞。
♫ 子どもが育って年をとったら 俺より先に死んではいけない
例えばわずか一日でもいい 俺より早く逝ってはいけない
何もいらない俺の手を握り 涙のしずく二つ以上こぼせ
お前のおかげでいい人生だったと オレが言うから必ず言うから
忘れてくれるな俺の愛する女は 愛する女は生涯お前ひとり
忘れてくれるな俺の愛する女は 愛する女は生涯お前ひとり
妻亡き後一人で死んでいくことを想定しない歌詞だ。
情けない。
自分自身は、看取ってもらおうなんて思ったことはない。
この歌詞は、最期は女性が男性の世話をするという発想なのだ。
世のジョセーたちは、この歌詞をいったいどう思っているのだろう。
ところで、自分自身は家事などやっていると思い込んでいた。
食器洗い、買い物、浴室掃除、洗濯 … 。
世のオトコたちの平均にくらべれば、自分はやっているのだと。
しかしこれは、思い上がり、慢心。
これまでの世の女性たちにとっては、ふつうのことなのだ。
これに出産、育児、介護。
兼業の仕事をもっている農家の方の場合は、農作業も加わる。
お盆・正月などさまざまな年中行事、親戚づきあい。
最近、そんなことに気づかされた。
それを、「家事いっさい、自分はやっている」と思い込んでいた。
家事をやっているといっても、世間のジョセー以下なのだ。
しかもまだ自分は、無心に行ってはいない。
いつもやりながら、怒ったり、苛立ったり。
意図しなくても、自然に行う、
そんなあり方ではない。
たえず「有意」がある。
「意識」しなくても自然に行っている、そんな境地に達せないものか。
「意識」しているからこそ、癇癪をおこす。
仏教でいう「貪瞋痴」(とんじんち)の「瞋」(じん 怒り)。
まさに煩悩の徒である。
何も考えず、ボーッと生きる。
そんな自分になりたい。
その境地になったときは、あの世にいってしまっているか(笑)。
その前に、認知症か。
とにかくアンガーマネジメントが必要な自分である。
「関白宣言」ではなく、
自分自身、「慢心反省宣言」というところか。
まとめ 「関白宣言」の最後がいいという人の気持ちがわからない。
しかし、自分自身には「思い上がり」「慢心」があった。