あれから50年 不思議な縁
* 1月11日は、「4分の3ポッキーの日」?
ほんとうに不思議な縁で結ばれています。
これまでに7回、行きました。
天候による偶然(別な島に行く予定が、台風の余波で着陸・接岸できず)、
仕事、そして旅行。
青い空、青い海。
首里城をとりまくユニークな石の城壁が大好きです。
沖縄各地に散らばるグスク(城)をいくつも見て回りました。
もちろん、沖縄そばも大好物です。
ミミガー、チュラガーも。
何だかわかりますか ?
初めて「平和の礎」を訪れたとき、
出身県の石碑のところで、アイウエオ順に名前を追っていきました。
10代で少年兵に志願し、沖縄戦で戦死した叔父の名前を探すためです。
見当たりませんでした。
従兄が役所に問い合せ、奔走します。
その結果、次に訪れた時には叔父の名前が刻まれていました。
父が生きているうちに、オキナワに連れて行きたかった。
志願兵について弟から相談されたとき、
とめなかったことが父の心に深く残っていたからです。
退職後、高校時代の同級生(オキナワ在住・就職)と東京で会いました。
約40年ぶりの再会です。
オキナワが彼の先祖の地だと、高校時代に知ってたかどうか。
高校に入るまで、
オキナワが米軍の完全支配下にあることを全く知りませんでした。
教えてくれなかった教師たち・大人たちに無性に腹が立ちました。
教師や大人たちは、オキナワを見殺しにしてきたのだ、と。
社会的な問題に目覚めるきっかけの一つです。
オキナワが本土復帰して、今年は「50年目」。
あれから半世紀もたったのです。
それなのに、今の状態は ?
ニホンのベーグン基地の7割以上が
国土の0.6%に過ぎないオキナワに押しつけられています。
本土の人間は、それを放置したままです。
そして今回、オミクロン株の感染大爆発。
アメリカから米兵たちが運んできたのです。
基地内でクラスターが発生しているのに、米兵は基地外を自由に出歩く。
ニホンセーフは、感染爆発の原因がベーグンにあることすら認めない。
米兵の外出禁止すら、求めない。
地位協定の改定も言わない。
自国民を守ることができないセーフ。
この記事を発表した後、やっと「外出制限」のニュースが … 。
オキナワのことがニュースになるたびに、腹がたちます。
これは「オキハラ」ではないか、と。
オキナワハラスメント。
オキナワ差別。
オキナワイジメ。
オキナワへの無関心。
オキナワに対してはどんなひどいことをしても許される。
同級生が、いっしょに飲んだときに言っていました。
「俺たちは絶対に負けない。
なぜなら、勝つまであきらめないから」と。
この言葉を初めて聞いた時、衝撃を受けました。
彼も、アラセブ。
今も彼はたたかいつづけています。
私たちにできることは、
オキナワに関する正しい知識をつかみ、
オキナワの歴史を学び、
周囲の人にオキナワのことを伝え続けること。
そして、オキナワ県民の声をしっかり受け止めるギインを、
一人でも多くコッカイにおくりこむことでしょう。
これだったら、私たちにもできます。
皆さんは、どう思われますか。
もちろん、心の中でのつぶやきでも、
非公開のコメントでも結構です。